梁山伯與祝英台(Love Eterne)


1963年。邵逸夫製作。李翰祥脚本・監督。賀蘭山(西本正)撮影。樂蒂、梁波主演。
1950年代後半から60年代にかけて盛んに作られた黄梅調映画の代表作の一つ。
2003年11月、なみおか映画祭(青森県)にて日本で初上映された。


この『梁山伯與祝英台』(1963年)という映画、香港映画ファンの方なら、タイトルぐらいはお聞きになったことがあると思います。
おそらく、『曼波女郎』(1957年)と並んで、香港の古い北京語映画の名作を紹介するさいには、必ずといっていいほど出てくるタイトルだからです。
それほど有名な映画でありながら、しかし、日本では長い間全く観るチャンスがない映画でもありました(『曼波女郎』も同様)。
このほど、DVDとVCDが発売されて、ようやく全編を観ることができましたので、早速この映画をご紹介してみたいと思いますが、その前に、この映画に代表される「黄梅調映画(黄梅調電影)」に関してのごくごく簡単な解説と、本作完成までのいきさつに関して、少しばかり記しておきましょう。

そもそも黄梅調とは、湖北省黄梅県をルーツとし、安徽省安慶地方で形成された地方劇である黄梅戯の旧名です(他に、採茶戯という名称もあります)。
黄梅戯は、その成立後、京劇や越劇といった他の演劇の影響を受けながら徐々に発展していきますが、新中国が成立すると、政府の地方劇重視政策により、飛躍的な発展を遂げることになります。
1950年代には、より現代化され洗練された形による黄梅戯の映画が製作され、これが香港でも上映されて、大変な好評を得ました。
そしてこの映画に啓発された香港の映画会社と監督が、自分たちも黄梅戯の映画を撮ろうと考え、黄梅調映画の第1作として製作されたのが、1958年の邵氏(ショウ・ブラザーズ)の映画『貂蝉』(李翰祥監督)でした。
翌年、同じく邵氏製作・李翰祥監督の『江山美人』(林黛、趙雷主演)が、第6回アジア映画祭で最優秀作品賞を受賞し、それ以降、1960年代末にかけて、数多くの黄梅調電影が製作されたのでした。

1963年、ライバル会社の電懋が、李麗華と尤敏を使った映画『梁山伯與祝英台』(厳俊監督)を製作中であることを知った邵氏は、自分たちも同作品の製作を行うことを急遽決定し、李監督のもとチームを結成して脚本を執筆(1954年に上海で製作され、香港でも上映された『梁山伯與祝英台』〔桑弧、黄沙監督。范瑞娟、袁雪芬主演〕を参考にしたと言われています)、全ての空きスタジオに『梁山伯與祝英』のセットを設営し、スタッフもメインのA班の他にB班まで組織(B班の監督を務めたのが、後の名監督・胡金銓でした)、キャストには自社の看板女優である樂蒂と新人同様の凌波を使って短期間で撮影を終了、電懋に先駆けて上映したのでした。
その結果はと言うと、特に台湾で未曾有とも言える大ヒットを記録、第10回アジア映画祭では4部門、第2回台湾金馬奨では作品賞、監督賞、主演女優賞を含む主要6部門の賞を受賞するという大成功を収めました。
一方、邵氏にすっかり遅れをとった電懋版の『梁山伯與祝英台』は、翌1964年に公開されるものの惨敗を喫し、さらに理事長(陸運濤)始め多数の重役を同年発生した飛行機事故で失って、会社の経営自体もかつての勢いを失っていくことになるのです。

映画のストーリーは、中国の有名な民間伝説に拠っています。

学問への情熱止みがたい英台(樂蒂)は、男装して杭州に行き、学問を修めますが、その途上、やはり杭州へ学問に行くという山伯(凌波)と知り合い意気投合、義兄弟の契りを交わします。
3年の後、母親が病に臥せっているという知らせを受け取った英台は、故郷に帰ります。
山伯に思いを寄せるようになっていた英台は、見送りに来てくれた山伯に、それとなく自分が実は女性であることを悟らせようとしますが、彼はそれに全く気づきません。
結局、英台は自分にそっくりの妹がいるので、今度山伯に引き合わせるといい、二人は別れます。
しかし、英台が故郷へ帰ってみると、母親が病というのは真っ赤な嘘、両親が勝手に英台と土地の実力者・馬家の息子との縁談を進めていたのでした。
学問所の師母から英台が女性で、自分のことを慕っていると聞かされた山伯は、急ぎ英台の家へ赴き結婚を申し込みますが、時すでに遅し。英台は馬家へ嫁ぐことが決まっていました。
失意のまま故郷へ帰った山伯は、病に罹り亡くなってしまいます。
婚礼の日、山伯が亡くなったという知らせを受けた英台は、馬家へ向かう前に山伯の墓にやってきます。すると、にわかに嵐が起こり、山伯の墓がぱっくりと割れて、その中へ英台は吸い込まれていきました。
やがて嵐が収まると、山伯の墓から二匹の雌雄の蝶が現れて、空高く飛び立っていくのでした・・・・。

「栄華の間」の『香港旅情』コーナー(「樂蒂と幻の合作映画」)でも書きましたが、この映画で樂蒂は第2回台湾金馬奨の主演女優賞を受賞するという栄光を手にしながら、観客の人気は凌波にかっさらわれてしまったと言われています。
しかし、わたくしの観たかぎりでは、この映画の樂蒂はどこまでも典雅で美しく、「古典美人」の名に恥じない名演技を見せています。
なにゆえに、このような説が一人歩きするようになったのか、理解に苦しむところです。

『梁山伯與祝英台』成立のいきさつのくだりで少し触れましたが、この映画は、台湾で特に熱狂的な支持を受け、凌波が来台したさいには、台北が「狂人城(城とは街の意)」と呼ばれたほど、市民は興奮状態に陥ったそうです。
劉現成の「台湾電影発展史上的絶響 談《梁山伯與祝英台》的社会意義」(『電影欣賞』第71期、1994年、台湾・国家電影資料館)によれば、台湾でこの映画を観た観衆の大半が婦女子で、しかもそれらの人々が全て凌波の山伯に熱を上げたといいます。
すこぶる「男前」な凌波の魅力に、普段は北京語映画を観ないような本省人(特に福〔イ老〕人。母語は台湾〔ミン南〕語)までもが、大挙して映画館に押し寄せたといいますから、台湾人の「凌波フィーバー」たるや、まさに凄まじいものがありました。
また、凌波はこの映画で北京語映画に本格デビューする以前、「小娟」の芸名で厦門語映画(厦門語は福建省南部で話されている言語。台湾語とはほぼ同一言語らしいです)に出演しており、それらの映画が台湾でも本省人向けに上映されていて、新人同然と言いながら本省人にとっては比較的馴染み深い存在であったという点、『梁山伯與祝英台』が台湾の地方劇である歌仔戯の代表的な演目の一つであったという点も、この映画が台湾で熱狂的に受け入れられた要因と言えるでしょう。
ちなみに、凌波がこの映画で圧倒的な人気を得た後、台湾では彼女の半生を描いた『孤女凌波』という台湾語映画まで製作されています。

というわけで、この映画は邵氏に莫大な利益をもたらし、凌波もスターの仲間入りを果たしましたが、樂蒂はけっきょく翌1964年に邵氏を去り、電懋へ移籍しました。
ところが、先述したとおり、その後、電懋は次から次へとアクシデントに見舞われ、彼女のキャリアにも微妙な影を落とすことになるのでした。

ところで、この凌波フィーバーに対して人一倍警戒心を抱いたのが、邵氏の影后・林黛(1934〜64)だったと、鄭佩佩(1946〜。「武侠映画の女王」と言われた女優。最近では、『グリーン・デスティニー』の悪役が有名)は記しています。
映画『宝蓮燈』(1965年。林黛の死後、公開されました)で、林黛は華山聖母を演じましたが、このとき、聖母の子供を凌波が演じる予定だったのを林黛が拒否、自分で演じてしまったというエピソードが、鄭の『戯非戯』(1998年、明窗出版社)には見えます。

以上、とりとめなく『梁山伯與祝英台』をご紹介しましたが、百聞は一見にしかず。ご自分の目で、この作品の魅力をお確かめになってみて下さい。
最後に、確かめると言えば、もう一つこの目で確かめてみたいことがあります。
それは、興行的に大失敗したという電懋の『梁山伯與祝英台』が、そんなにつまらない映画だったのか、ということです。
現在発行中の電懋のDVDシリーズのラインナップには、残念ながら『梁山伯與祝英台』のタイトルはありませんので、観る機会が訪れるかどうかは全くわからないのですが、いつか電懋版を観て、この半ば伝説化された『梁山伯與祝英台』にまつわるエピソードの真実を確認してみたいと思っています。(了)


付記:
1、この世で添い遂げられなかった男女が雌雄の蝶になるという設定は、日本でも「蝶の道行」(義太夫「けいせい倭荘子」)という所作事に見られます。この2作品に何か影響関係があるのかなあとずっと考えているのですが、まだきちんと調べておりません(お話の成立は、無論中国の方が先です)。
2、この映画の中で、凌波は自分で歌っていますが、樂蒂の歌は60年代を代表する代唱歌手・静〔女亭〕(1934〜)が吹き替えています。
3、この映画のラスト近くの特撮部分は円谷英二が担当、日本で撮影が行われました。
4、1954年の中国映画『梁山伯與祝英台』は、翌55年に日本でも上映されています。
5、『もっと楽しい台湾映画 1』巻末の「国語映画歴代ベストヒット(台北市統計)」によると、電懋版の『梁山伯與祝英台』は、1965年の第10位。つまり、そこそこのヒットはした、ということになります(あくまでも、台北のデータのみですが)。それでも「惨敗」と言われてしまうあたりに、邵氏版の『梁山伯與祝英台』のお化けぶりがうかがえます。


主要参考文献・サイト:
『邵氏電影初探』(2003年、香港電影資料館)。
『戯非戯』(鄭佩佩、1998年、明窗出版社)
『電影欣賞』第71期(1994年、台湾・国家電影資料館)。
『季刊 リュミエール』7号(1987年、筑摩書房)。
『キン・フー武侠電影作法』(1997年、草思社)
『もっと楽しい台湾映画 1』(1999年、賓陽舎)
中国映画『梁山伯と祝英台』パンフレット(1955年)。
樂蒂紀念網頁(http://come.to/ledi)。
古典美人 樂蒂(http://www.ledi-web.com/)。
樂儀忘憂(http://betty-lohti.hypermart.net/content.htm)。





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