南北和(The Greatest Civil War on Earth)



1961年。鍾啓文、宋淇製作。宋淇脚本。王天林監督。丁皓、白露明、雷震、張清、梁醒波、劉恩甲主演。
戦後、香港に移住してきた上海人と、代々香港に住む広東人との対立と和解を描いた喜劇。
電懋で数多くの作品を撮った職人監督・王天林の傑作の一つ。


本作は、戦後、特に新中国成立後に香港に移住してきた大陸出身者と、香港の地元民との対立と和解をユーモラスに描いた喜劇映画の傑作です。
現在でも、香港では大陸からの新移民が増加中ですから、この映画で描かれたテーマは、香港に住む人々にとっては今も昔も変わらぬ問題だとも言えます。

ストーリーは、下記の通りです。

隣同士にテーラーを構え、しかも住まいも隣同士の上海人・李四寶(劉恩甲)と広東人・張三波(梁醒波)は、何かといえばすぐに張り合う犬猿の仲。しかし、李の娘でスチュワーデスの翠華(丁皓)は流暢な広東語を操り、広東人の機長で張の甥っ子・麥永輝(張清)と熱愛中。
一方、張の娘・麗珍(白露明)は、翠華を訪ねてやって来た上海人・王文安(雷震)と偶然出会い、互いに一目ぼれ。
しかし、娘の相手を知った李と張は激怒、交際を禁じてしまいます。
その後、李の店と張の店は、互いに無理な競い合いをした結果経営困難に陥り、李の店には取引先の支払い催促が相次ぎ、張の店では出資相手が出資を取り消すから金を返せと迫ってきます。
が、そんな時、王が現れて李の店の取引相手に交渉、支払いを待ってもらえるよう取り計らってくれました。実は、王は繊維会社の重役だったのです。
さらに、張の店の出資相手には麥が金を支払い、やはり窮地を救います。麥は翠華との結婚に備え、こつこつ貯金をしていたのでした。
娘の交際に反対していた李と張もこの姿には感動、交際禁止を取り消して二人は和解、共同でテーラーの経営に乗り出すのでした。

電懋の北京語映画の人気スターであった丁皓(1939〜67)と雷震(1933〜)、劉恩甲(1916〜68)に加え、広東語映画(電懋は、広東語映画も製作していました)に出演していた梁醒波(1918〜81)、白露明(1937〜)、張清(生年不詳)を起用、作品の中では北京語と広東語がめまぐるしく飛び交い、かなりリアルな設定です。
ただ、京劇と粤劇、北京料理と広東料理といった争いは、上海人の場合、越劇や上海料理の方がよかったような気もします。
ま、そうなると、北京語と広東語も、上海語と広東語にしなければならなくなってしまいますが。

この映画、公開当時は大変なヒットを記録、邵氏もさっそく同じネタで『南北姻縁』(1961)を作っています。いかにも「香港には著作権はない」と豪語(?)していた邵氏らしいやり方です。
といっても、日本でも東宝のサラリーマン映画(「社長」シリーズ)が当たれば、他社が似たような映画(東映の「次郎長社長と石松社員」シリーズ)を撮るといった按配でしたから、いづこも同じということでしょうか。

この映画の好評を受けて、電懋ではこの後に姉妹作『南北一家親』(1962)と『南北喜相逢』(1964)が製作されることになりましたが、この3作全てでメガホンをとったのが、日本では「王晶の父」として名高い王天林監督。
当時の香港映画界を代表する監督の1人です。

王監督は、1928年、上海で生まれ、1947年に映画界入り。スクリプター、編集、録音、助監督等、ありとあらゆるスタッフの仕事に従事した後、1950年に広東語映画『峨嵋飛劍侠』で監督デビュー。
1956年の北京語映画『桃花江』で、歌謡映画(ミュージカル)ブームを巻き起こした後、1958年、電懋に加入。1971年の製作部門閉鎖の時まで、一貫して作品を撮り続けました。
代表作に『家有喜事』(1959・第7回アジア映画祭監督賞受賞)、『野〔王攵〕瑰之戀』(1960)、『家族(小兒女)』(1963)、『啼笑姻縁』(1964)等があります。また、広東語映画や厦門語映画も手がけました。

喜劇からミュージカル、文芸映画まで、幅広い作品を撮り続けたまさに「職人監督」であると言えましょう。(了)

付記:この映画、タイトルバックや劇中で『春が来た』『夕焼け小焼け』が流れたり、李家と張家が和解のしるしに日本料理店で鍋をつついたりと、思わぬところで日本が顔を出します。


主要参考文献:
『國泰故事』(2002年、香港電影資料館)
『邵氏電影初探』(2003年、香港電影資料館)
『昨夜星光 香港映画を彩るヒーローとヒロインたち』(1996年、ワイズ出版)





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