體育皇后(Beauty Parade)



1961年。鍾啓文、宋淇製作。汪榴照脚本。唐煌監督。姚敏音楽。丁皓、雷震、羅維主演。
電懋生え抜きのスター・丁皓が女学生に扮した、香港版学園スポ根ドラマ。


電懋の映画で日本でもよく知られている作品というと、やはり葛蘭(グレース・チャン。1934〜)の主演作品(『曼波女郎』『野〔王攵〕瑰之戀』)になりますが、今回ご紹介する作品は、『曼波女郎』で葛蘭の妹役(実は血の繋がらない妹なのですが)を演じていた丁皓(てぃん・はお)の主演作です。

ストーリーは、新界の農村の娘・郭素娥(丁皓)が街の女学校に進学、はじめこそ「田舎者」といじめられますが、彼女は徐々にスポーツの世界で頭角を現し、バスケットボールチームに所属、「体育皇后」と呼ばれる学園のアイドルになります。
ところが、スポーツに打ち込み過ぎて試験で落第点を取り、怒った父親(羅維)は彼女にスポーツをすることを禁じてしまい、彼女が抜けたチームは連戦連敗。
困った校長や教師たちは一計を案じ、それが功を奏して彼女はぶじチームに合流、ライバルチームに快勝する、というもので、これにヒロインの親友の兄(雷震)とヒロインとの、淡いロマンスが絡みます。

セーラー服に体操着、ブルマーにスコートと、おじさん好み(?)のファッションが満載の楽しい映画です。
「この頃からサンバイザーってあったんだなあ」と、どうでもいい「トリビ○の泉」系知識も得ることが出来ました。

主演の丁皓(本名・丁寶儀。英文名・Kitty)は、1939年(一説には37年)10月9日、マカオで生まれ、幼少時を広東省で過ごした後、国民党軍の参謀長であった父と共に中国西南部を転々とし、ベトナムに住んだ時期もありましたが、終戦後は上海で暮らしました。北京語と広東語を自在に操る言語の才は、この頃身に着けたもののようです。
1950年、香港に移住し、14、5歳の頃、國際(電懋の前身)の俳優養成クラスに加入、『青山翠谷』(1956)『曼波女郎』(1957)『小情人』(1958)等に出演、映画のタイトルから取られた「小情人」の愛称で人気を博します。
60年代に入ってからも、『母與女』(1960)『南北和』『遊戯人間』『體育皇后』(1961)『南北一家親』(1962)等で主役を務めますが、62年、彼女の有力な後ろ盾であった電懋の社長・鍾啓文が退社、彼女も翌63年末に電懋を辞めることになります。
同年、華僑と結婚して一子を設け、64年からは広東語映画に転じて数本の映画に出演。が、65年に結婚生活が破綻し、66年には子供と共にアメリカに移住。新たな生活に入ります。
しかし、1967年5月23日、丁皓は自らの命を絶ちました。享年27歳。遺体の手には、子供の写真がしっかりと握り締められていたといいます。

ところで、『昨夜星光』には、丁皓について「仙人から秘伝の相術(手相等)を授かって、日本の首相に披露したエピソードが話題を呼んだ」との記述がありますが、日本の首相とはいったい誰なのかに関しては、残念ながら一切触れられていません。
おそらく、1960年、丁皓が東京で行われたアジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)出席のため来日した際、当時の岸信介首相が出席者を招待してレセプションを開催している(4月6日。於・首相官邸)ので、このとき、岸首相に自慢の相術を披露したのではないかと考えられます。
ただ、日本の報道にはレセプション開催のことが書いてあるのみで、丁皓が相術を披露した話は(当たり前のことかもしれませんが)全く出てきません。
いずれにせよ、もし本当のことだとすれば、なかなか面白い逸話だといえるでしょう。(了)


主要参考文献・サイト:
『國泰故事』(2002年、香港電影資料館)
『昨夜星光 香港映画を彩るヒーローとヒロインたち』(1996年、ワイズ出版)
『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』『日本経済新聞』
浮生万象(http://www.gstage.com/cgi-bin/f_column.cgi?category=3)




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