樂蒂と幻の合作映画 1
(『香港旅情』)




「明星の間」の尤敏コーナー(「尤敏在日本 1」)でちらりと触れましたが、東宝が香港から尤敏を連れてきて大当りをとったことに触発されて、東映は尤敏が所属する電懋(國際電影懋業公司。MP&GI。キャセイ・オーガニゼーション)のライバル会社・邵氏兄弟(香港)電影有限公司(ショウ・ブラザーズ。以下、邵氏と表記)と提携、邵氏の人気女優である樂蒂(ロー・ティ)を招いて『香港旅情』という映画を撮ろうとしました。
が、製作発表記者会見まで行いながら、残念なことにこの映画は未製作のまま終わり、邵氏との提携自体も解消されてしまいました。
そこでここでは、幻に終わった合作映画『香港旅情』について、少し詳しくご紹介してみたいと思います。

その前に、樂蒂のプロフィールをご紹介しましょう。

樂蒂(本名・奚重儀。英文名:Betty)は、1937年8月29日、上海で生まれました。6人きょうだいの末っ子でした(兄3人・姉2人)。1950〜60年代に男優として活躍した雷震(1933〜)は、彼女の3番目の兄にあたります。
生まれる前に(日中戦争のさいの)上海市街戦の爆撃によって父が亡くなり、1948年には母も死去、きょうだいは母方の祖父母に引き取られました(祖父は天蟾舞台〔現・逸夫舞台〕のオーナーで、「江北大亨」と呼ばれた顧竹軒)。
1949年、家族とともに香港に移住、1953年、長城電影製片公司に所属して女優としてのスタートを切ります。芸名の「樂蒂」は、彼女が6人きょうだいの末っ子であることから付けられた幼名「六弟」に由来します。
1958年、邵氏に移籍、彼女の美貌は「古典美人」と称えられるまでになりました。
1960年、主演映画『倩女幽魂』がカンヌ映画祭に出品され、残念ながら受賞は逃しますが、彼女は「中国で最も美しい女優」と賞賛されます。
1962年1月、男優の陳厚(1929〔or31〕〜70)と結婚、9月には女児(明明)を出産、この頃が彼女にとって幸せの絶頂でした。
1963年、『梁山伯與祝英台』で第2回台湾金馬奨主演女優賞を受賞したものの、観客の人気は共演者の凌波(1939〜)に集中(特に台湾で大フィーバーを巻き起こしました)、大きな挫折を味わったと言われています。
1964年、邵氏から電懋(翌年、國泰機構に改組)に移籍しますが、その頃から電懋は邵氏に押されて凋落の一途を辿り始め、樂蒂のキャリアにも暗い影が差し始めます。
また、武侠映画の製作が盛んになる一方で、樂蒂が得意とする文芸映画の製作が下火になっていったことも、彼女にとって不利な要素となった模様です。
1967年、兄の雷震らとともに金鷹電影有限公司を設立、新天地での巻き返しを図りますが、同年、陳厚との結婚生活が破綻してしまいます(子供は樂蒂が引き取りました)。
そして翌1968年12月27日、彼女は、愛児明明を残したまま急逝しました。31歳の若さでした。


付記:彼女の死因に関して、「睡眠薬の大量服用による自死」という説が一般には流布しているようですが、彼女は普段から眠れない時などに眠薬を常用していたそうで、その服用量は通常よりもかなり多めであったといいます。
また、彼女の家系には心臓があまり丈夫でない人が多く、その点から見るとこの自死説はきわめて適正さを欠くものと言わざるを得ません。
さらに、あれほど子供を愛していた彼女が、敢えて死を選ぶなどとはちょっと考えにくいのです。
実際には、今日で言うところの「突然死」だったのではないでしょうか。
この件に関しては、台湾のファンサイト「古典美人 樂蒂」(http://www.ledi-web.com/)内の菁華收録(http://www.ledi-web.com/good.html)で、樂迷國際影友會のdianaさんが非常に精緻なご考察を行っていらっしゃいます。ぜひともお読み下さい(『樂蒂絶非自殺死亡』〔一〕〜〔完〕)。



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