にっぽんの台湾男星1
1961年、香港の人気女優・尤敏が日本に招かれて日港合作映画『香港の夜』に主演、大ブレイクとなっていたちょうど同じ頃、台湾からも1人の男優が来日、日本に拠点を置いて地道な芸能活動を始めていました。
彼の名は、林沖といいます。
林沖(本名・林錫憲。英文名:Jimmy)は、1936年(月日不詳)台湾・台南で生まれました。
生家は当地の名門で、父は台湾人、母は日本人でした(邱永漢と同じですね)。
幼い頃から舞踊の才を示し、台北の淡江文理学院外文系在学中に中国民族舞踊コンクールで1位となり、これがきっかけとなって映画界入りしました。
デビュー作は、1956年の『黄帝子孫』(台湾電影製片廠)。
外省人と本省人の恋愛を描いた国策映画で、劇中、北京語と台湾語が同時に話されるという作品でした。
そのときは本名である林錫憲を名乗っていましたが、後に林沖という芸名に改め、台湾語映画で活躍を始めます。
しかし、1960年に入ると台湾語映画は低調になり、林沖は官製映画会社である中央電影公司と契約、北京語映画へ転身します。
そして1961年4月、台北で行われた日本映画見本市で東映の新島外国課長に見出されて1年の契約を結び、日本の土を踏むこととなりました。
1961年4月28日付『日刊スポーツ』の「台湾から映画修業」及び『週刊女性』1961年5月第1週号の「にぎやかな輸入スター」という記事の中に、来日間もない林沖の消息が見えます。
十人の人気スターのうちたった一人の男優という男優不足の台湾でトップの人気を保っているのが林沖(リン・ツオン)。柔らかな物腰、スマートな応対、徹頭徹尾台湾流のフェミニスト・マナーを身につけている。来日三週間、浅草、銀座とまわった印象は"日本は天国です"ということになる。(略)
台北の淡江文理学院外文系を卒業、仏、英、日語をしゃべるレッキとしたインテリで夢は特技のバレエを生かしたミュージカル。水泳、ボデー(ママ)・ビルできたえた体を生かした探偵ものがやりたいという。「メロドラマばかりだった」という甘い風貌に案外強い意志を持っているように見うけられた。
出演作は未定だが日本の国籍不明?のアクションでもふり当てられたらどう対処するか。二十五歳、身長1メートル76センチ、体重69キロ。(『日刊スポーツ』より)
東宝「香港の夜」に出演中の尤敏(ユーミン)をはじめ、大映「釈迦」のチェリト・ソリス、そして東映と年間七本の契約を結んだ林沖(リン・ツォン)と、このところ輸入スターの話題がにぎやか。(略)
林沖は台湾映画界の人気男優で二十五歳。父親が明治大学卒、弟と妹はいま日本大学に在学中という、一家そろっての親日家。台湾の人気投票ではトップを占め、すでに十五本の作品に出演している。
東映でも専属契約まで結んだだけに、慎重に出演第一作を企画中だが、本人は久保菜穂子と共演したいと張りきっているそうだ。(『週刊女性』より)
こうして、日本映画界における第一歩を記した林沖でしたが、その前途には苦難が待ち受けていたのでした。
付記:林沖の沖は、〔冫中〕と記すこともあり、林沖も初期資料はそのような表記ですが、現在では沖が用いられることが多いため、こちらでは沖を採用いたします。あしからず、ご了承下さい。
Copyright (C) 2004 "Ryosou Ai no Sazanami" by Senkichi. All rights reserved.