尤敏在日本1 (香港の夜) 壱



ユーミン、と言っても、このユーミンは、泣きながらちぎった写真でジグソーパズルをしたり、別れ際、男の部屋にわざと真珠のピアスを落としていったりはしません。
わたくしがこれから書こうとしているユーミンは、1950年代から60年代にかけて香港映画界で活躍し、60年代初めには5本の東宝映画に出演して日本でも人気を博した伝説の女優・尤敏(ユーミン。You Min.Yu Ming 1936〜96)のことです。

尤敏、本名・畢玉儀(英文名:Lucilla、通称:Lulu)は、1936年8月19日(一説に1935年4月25日 or 1935年5月7日)、香港で生まれました。父は粤劇(広東オペラ)の名優・白玉堂。弟3人、妹2人という6人きょうだいの長女でした。
両親が多忙だったため、尤敏は幼い頃にマカオの祖母の家へ預けられ、そこで育ちました。

1952年、聖心高等中学校2年生の時、香港の映画会社・邵氏(邵氏父子公司〔ショウ&サンズ〕。邵氏兄弟(香港)有限公司〔ショウ・ブラザーズ〕の前身)の責任者・邵邨人にスカウトされ、映画界へ入ることとなります。
尤敏という芸名は、彼女が自分の好きな姓と名前を1文字ずつ紙に書いて丸め、これを適宜選んだところ、「尤」と「敏」の2文字が出てきたことから決まったと言われています。

同年、尤敏は『玉女懐春』という映画でデビューしますが、これはお蔵入りとなり、次の作品である『明天』が、一般公開された最初の作品となりました。
こうして、香港映画界にデビューした尤敏は、次々と主演映画を撮影していきます。

1958年、邵氏から電懋(國際電影懋業公司。MP&GI。後に國泰と改称。キャセイ・オーガニゼーション。邵氏と並ぶ大手映画会社)に移った尤敏は、1959 年、移籍第1作目の『玉女私情』と同年の『家有喜事』で第6回・第7回のアジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)主演女優賞を連続受賞、一躍トップ女優の仲間入りを果たします。

そして1960年11月、ある日本人男性が香港で尤敏に会い、日本・香港合作映画の主役に彼女を抜擢することを決めました。
男性の名は、藤本真澄。東宝の大物プロデューサー(製作担当重役)でした。
実は、藤本の前にも森岩雄(東宝創始者の1人。後に副社長となる)が1955年に尤敏に会い、合作映画出演を依頼していたのですが、当時彼女が所属していた邵氏が首を縦に振らなかったため、実現しなかったといういきさつがありました。
森から尤敏の話を聞いていた藤本は、じっさいに彼女に会ってみて「日本でも売れる人だ」と直感、さっそく電懋の責任者に合作映画製作を申し込み、快諾を得ます。
かくして、東宝と電懋による合作映画製作が始まり、尤敏はその主演女優として日本デビューを果たすこととなりました。


付記:尤敏の生年月日、香港電影資料館のデータでは「1935年4月25日」、また、『國泰故事』(2002年、香港電影資料館)では「1935年5月7日」とありますが、ここでは「尤敏紀念網頁」(第4章文末「主な参考文献」の項参照)の記述に従い「1936年8月19日」としました。
なお、尤敏の生年月日に関しては、「尤敏記念網頁」の管理人・秋盈さんからいろいろとご教示を賜りました。記して謝意を表します。



尤敏(目次)に戻る

 次頁



玄関(TOP)



Copyright (C) 2004-2007 "Ryosou Ai no Sazanami" by Senkichi. All rights reserved.