尤敏在日本1 (香港の夜) 弐
電懋と東宝、双方の話し合いの結果、中国人俳優とスタッフの人件費、香港ロケの際の機材費用の負担は電懋が受け持ち、その他一切の費用は東宝が受け持つ、という条件で話がまとまりました。
また、完成した作品の東南アジア(含・香港、台湾)での配給権は電懋が、それ以外の地域(もちろん日本も含む)での配給権は東宝が握ることになりました。
合作の企画を電懋から一任された東宝は、日本版の『慕情』(1955年、米。ヘンリー・キング監督。ウイリアム・ホールデン、ジェニファ・ジョーンズ主演)を作ることに決定、タイトルを『香港の夜』とし、尤敏の相手役には宝田明(旧満州ハルピン生まれ)、監督には千葉泰樹(戦前、台湾で『義人呉鳳』『怪紳士』を監督)の起用を決めます。
台本の内容を巡るすったもんだ(日本男性が香港女性を好きになってもいいが、香港女性が日本男性を好きになるなどもってのほかだと、電懋側が難色を示したりしました)はありましたが、最終的には千葉監督に全てを任せるということでどうにか落ち着き、1961年3月、香港で撮影が始まりました。
ところが、今度は、尤敏と宝田明のキス・シーンを撮ることはまかりならぬ、とのクレームがつき、激怒した監督は、撮影を中止してホテルへ引き揚げてしまいます。
結局、ロングショットでシルエットにして撮影する折衷案が採用されて作業再開、香港での撮影も無事終了して、日本での撮影に入ることになりました。
4月7日、尤敏を連れた一行が羽田に到着すると、そこには沢山のマスコミが待ち構えていました。
なんと日本では、キス・シーンを巡る騒動も「キスお断りの女優」として却って話題になり、尤敏の知名度を上げるために有効(?)利用されていたのです。
翌8日、尤敏は東京會舘で行なわれた記者会見とレセプションに出席、その美しさと優雅さでたちまちのうちに人々を魅了しました(目次の写真参照)。
このとき、彼女に付けられたキャッチ・フレーズが「香港の真珠」。
東宝は、彼女を売り出すために、当時の金額で2500万円という巨額の費用を投じていました。
日本での撮影中、彼女は帝国ホテルに宿泊、移動のために運転手付きの車が常備され、オフのときは東宝宣伝部が全ての手配を行なったそうです。
付記:はじめ、東宝は尤敏を「第二の李香蘭」という触れ込みで売り出し、マスコミも同じような取り上げかたをしていましたが、尤敏サイドが難色を示したため、藤本真澄が「香港の真珠」と紹介したようです。
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