ほのぼのホラー 2
(『沖縄怪談 逆吊り幽霊
支那怪談 死棺破り』)

 



1960年代に製作された日本と台湾の合作映画というと、日活の『金門島にかける橋』や大映の『秦始皇帝』(いずれも中央電影公司との合作)、あるいは東宝の『香港の白い薔薇』『バンコックの夜』(台湾電影製片廠との合作)が有名ですが、こちらは同じ台湾でも中影や台製のような北京語映画ではなく、台湾語映画の陣営と協力した珍しい一品です。製作にあたって、台湾側が51%を出資、日本側は49%を出資しています。
当時、日本映画を台湾へ輸入しようとすると多額の関税をかけられたため、台湾側が(日本側より)少し多めに出資して台湾映画の名義で(台湾へ)持込むことにより、関税を免れたのだそうです。

『沖縄怪談逆吊り幽霊』と『支那怪談死棺破り』、2つのタイトルが併記されているため、一瞬別々の作品かと勘違いしてしまいますが、実際には『沖縄怪談』の中に『支那怪談』のエピソードが劇中劇のように挿入されるという、入れ子式の構成になっています。
ただ、画面を見るかぎりでは、「沖縄」と言いながら沖縄では撮影していないみたいです。映画の冒頭で、比嘉夫妻が浜辺を散歩していると、『安里屋ユンタ』を踊る一団(花ノ本寿舞踊団。でも、御大の花ノ本寿は不在)が現れるという、もっともらしいシーンが出てくるものの、どう見てもあの浜辺は沖縄のそれとは思えません。寒々とし過ぎています。

映画の内容はというと、「おそろしい」とか「怖い」というよりは「おいおい」とか「ほんまかいな」という言葉が先に立つものでした。だいたい、健生が心配するほど玲子は絶世の美女じゃありませんでしたし(失礼。演じるは後にピンク女優の草分けとなった香取環)、玲子と大場が惨殺された後、井波が車を走らせていると、三途の川も死出の山も無視してあっという間に幽霊と化した玲子が井波に前に現れるというのも、あまりに唐突な展開です。
しかも、幽霊を見た井波が泡を食って健生と朱美のところへ駆けつけるシーンでは、井波の着ている服が替わっていて(アロハにジャケットから背広)、「あんなに怖がっていたのに、自分の部屋へ寄って服を着替える余裕はあるのね」とつい思ってしまいました。玲子の死体の足に釘を打つシーンで、足から鮮血が出たのにはちょっとびっくりましたが。
そんなこんなで全体にゆるいストーリー展開のため、ラスト、玲子と大場が成仏するシーンでは、「よかったねえ」とほのぼのした気分になりました。

監督のクレジットは小林悟と邵羅輝の共同監督になっており、邵はおそらく『支那怪談』の演出のみを担当したものと思われますが、小林によると「台湾側で現場に来てたのは『支那怪談』の夫婦役の二人で、夫を演じた梅さんが俳優件監督(梅芳玉とは、邵の男優としての芸名。つまりここに出てくる梅さんは、邵羅輝その人・せんきち注)。でも彼は演出面では全然タッチしなかったんです。まあ、日本語ができたんで、妻を演じた白さんに芝居つけるとき、台湾語で訳してくれました」(『幻の怪談映画を追って』より)とのことで、『支那怪談』の脚本選定や日本側との折衝には直接関わっていたものの、実際の製作にあたっては、小林悟に全てを委任したのかも知れません。
『支那怪談』のストーリーの典拠は、明代の小説『警世通言』の第2話「荘子休鼓盆成大道」で、通常は『荘子試妻』の名で広く知られています。「香港映画の父」と言われている黎民偉が監督した最初の香港製映画も、この『荘子試妻』でした(1913年)。
ここの件の見せ場は、なんと言ってもタイトルにもなっている「死棺破り」なのですが、残念ながらフィルムが現存していないようで、わたくしが観たDVDでは、田花夫人が棺を開けた後の場面ではもう荘周が生き返っていました。台湾にも(フィルムが)残っていないのでしょうか。ぜひ観てみたいのですが。

邵羅輝(写真)は、1919年生まれ(台南出身)。日本で映画製作を学んだ後(注)、1947年に帰台、劇団を結成するものの失敗。
1955年、歌仔戯(台湾の地方劇)の劇団「都馬戯劇団」の役者を使って製作された16ミリ映画『六才子西廂記』を監督、6月23日に台北市大観戯院で上映します。
この映画は入りが悪く、たった3日間で上映打ち切りになりましたが、戦後台湾で製作された初めての台湾語映画となったのでした。
その後、本格的に監督業に乗り出した邵は、1970年までに約50本の映画を監督、その中には日本の昔話に材をとった『桃太郎』(1961年。邵自身が桃太郎に扮しています)のような作品もあります。
台湾語映画が下火になってからは、俳優としてときおり北京語映画に出演、1993年にこの世を去りました。

田花夫人を演じた白蓉は、当時の台湾語映画を代表する女優の一人です。詳しいプロフィールは不詳ですが、呂訴上の『台湾電影戯劇史』によると、もともとは歌仔戯の女優だったそうです。また、彼女と梅芳玉(即ち邵羅輝)の来日を伝える『日刊スポーツ』の記事(1962年4月28日付)には「26歳」とありますから、1935年か36年生まれと推定されます。
が、顔ははっきり言ってナインティナインの岡村そっくりで、わたくしは密かに「岡村の母」というニックネームを付けてしまいました。見た目も20代とは思えないぐらい老けています。

荘周を演じた梅芳玉は、先ほども述べたとおり邵羅輝の男優としての芸名、つまり邵羅輝その人であります。
しかし、『日刊スポーツ』の記事には、なぜか年齢が「30歳」とありました。いったいいくつサバ読んでるんだか・・・・。
が、映像で見る限りでは、なかなか押し出しの立派な役者ぶりでした。
二人(白蓉・梅芳玉)は、1959年の映画『蛇郎君』(邵監督)でも共演しています。

ちなみに、もう一人の監督である小林悟は、1960年代後半から70年代前半にかけて台湾で監督業に従事しています。わたくしの調べた範囲では、『飛天怪侠』(1967)『薛/子情』『神龍飛侠』『月光大侠』(いずれも1968)『望〔イ尓〕早帰』(1969)『太太的煩悩』(1971)ぐらいしか判明しませんでしたが、他にも台湾語北京語問わず、多数の作品でメガホンをとったようです。

この映画、現在でもDVDが発売されていることからわかるように、一部映画ファンの間ではB級カルトホラーの名作(迷作?)として有名な作品ですが、内容はともかく、日台合作映画という側面からも省みる価値のある作品だといえるでしょう。(とりあえづ了)

注:『春花夢露 正宗台語電影興衰録』(葉龍彦、1999年、博揚文化事業有限公司)によると、邵は日本で映画製作を学んだ後、松竹に所属、「中村文蔵」の芸名で俳優をしていたそうですが、どのような作品に出演していたかは不明です。


付記:『支那怪談』、田花夫人の侍女役で白石冬美が出演しています。


主要参考文献・サイト:
『幻の怪談映画を追って』(山田誠二、1997年、洋泉社)
『台湾電影戯劇史』(呂訴上、銀華出版部、1961年)
『悲情台語片』(黄仁、萬泉図書、1994年)
『台湾電影閲覧』(李泳泉、玉山社、1998年)
『春花夢露 正宗台語電影興衰録』(葉龍彦、1999年、博揚文化事業有限公司)
『日刊スポーツ』
台湾電影筆記(http://www4.cca.gov.tw/movie/index.asp)。
緊急特別企画 追悼・小林悟監督(http://www.fjmovie.com/satsuma/kobayashi/kobayashi1.html)。





沖縄怪談逆さ吊り幽霊 支那怪談死棺破り(目次)に戻る


 前頁



玄関(TOP)



Copyright (C) 2004-2005 "Ryosou Ai no Sazanami" by Senkichi. All rights reserved.