恋のゴールもゲットだぜ! 3
(『レッツゴー!若大将』)
この他、美芳の婚約者役で宝田明が出ていますが、当時、宝田は、尤敏と共演した日港合作映画や、単身香港に渡って出演した香港映画(『最長的一夜』)によって、香港はじめ東南アジアで大変な人気がありましたから、彼が出演することによって海外公開時にも一定の集客数が確保できるとの読みが、製作サイドにはあったのかも知れません。また、彼が中国人を演じているというのも、海外の観客を意識したキャスティングだった可能性があります。
美芳を演じた陳曼玲(1947〜。写真)は、國泰(旧・電懋)の専属女優。台湾出身です。某加山雄三関連サイトには「岩内監督がスカウトした」とありますが、これはちょっと出来すぎの話で、実際には1963年、電懋(65年半ばに國泰に改組)が台湾で行った新人オーディション(友人のお付き合いで無理やり応募させられたらしいです)に合格し、1965年初めに電懋に正式加入しています。今回の出演も、國泰サイドの推薦によるものと思われます。
彼女の父親は早稲田大学を卒業しているそうですが、彼女自身は日本語を全く話せないため、来日前に日本語を猛特訓、なんとか台詞を覚えて日本へ来てみたら、今度は脚本の内容が変更になり、せっかく覚えた台詞が水の泡になってしまったとか。
それでもスタッフの支えで、どうにかこうにか無事に撮影を乗り切ったのだそうです。
そして、この『レッツゴー!若大将』が、彼女にとって一般公開された最初の作品になりました。
青大将の決め台詞「痛ましいなあ」をそっくりそのまま頂いた「痛ましいですネエ」という脱力系の台詞が、ほのぼのとした笑いを誘います。
香港での彼女は、武侠映画から現代劇まで幅広く活躍、『第一剣』(1967)や『水上人家』(1968)、『玉樓春夢』(1970)等の出演作品があります。國泰最末期のスターでした。
1971年、國泰が製作部門を閉鎖した後、『應召女郎』(1973)等いくつかの作品に出演して引退、1980年代に入ると製作者として同姓同名の人物が見えますので、一時スタッフとしても映画界に関わっていたようです。
現在は、どうしているのでしょう?
ところで、1966年暮れから『レッツゴー!若大将』が公開された67年のお正月にかけての映画興行を調べてみたところ、、香港ロケを行った日本映画が一挙に3本も封切られていました。
1本はもちろんこの映画、残る2本は松竹の『神火101 殺しの用心棒』(石井輝男監督。竹脇無我、吉村実子、林翠主演)と日活・邵氏合作の『アジア秘密警察』(松尾昭典監督。二谷英明〔香港公開版では王羽〕、浅岡ルリ子、方盈、宍戸錠主演)でした。
しかも松竹は、『神火101 殺しの用心棒』をお正月第1弾作品として送り出した後、第2弾ではシンガポールロケを行った『シンガポールの夜は更けて』を公開しています。
ご存知の通り、この頃すでに日本映画は斜陽産業の仲間入りを果たしており、合作と海外ロケにその活路を見いだそうとしていたことが、これらのことからも伺えます。
しかし、残念ながらそうした対策が功を奏することはなく、日本映画は混迷の度を深めていくのでありました。
ただし、『レッツゴー!若大将』に限って言えば、正月映画として前年度を上回る成績をあげたようで、その意味では、比較的成功した作品だったと言えるでしょう。
ちなみに、作品中、京南大学として登場するのは世田谷区桜上水にある日本大学文理学部。学生の皆さん、必見です。(了)
付記:
1、この映画の中で、澄ちゃんが泊まるのは東宝の定宿であるアンバサダー・ホテル(国賓酒店)。ペニンシュラ・ホテル(半島酒店)の(彌敦道〔ネーザン・ロード〕を挟んで)斜め前にあったホテルです(現・東企業廣場)。一方、若大将が泊まっていたのは、香港島の高台にあるヒルサイド・ホテル。こちらもアンバサダー・ホテルと同じく現存していない模様ですが、どの辺りにあったのか、探してみたいものです。
2、星由里子の同僚役でひし美ゆり子がちょこっと出演しています。
レッツゴー!若大将(目次)に戻る
前頁へ
玄関(TOP)
Copyright (C) 2004 "Ryosou Ai no Sazanami" by Senkichi. All
rights reserved.