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樂蒂と幻の合作映画 3
(『香港旅情』)
『香港旅情』の内容に関しては、当時の報道から類推するよりほか方法がないのですが、『日刊スポーツ』(1962年2月7日付 「スチール撮影もなごやかに 東映、香港合作『香港旅情』」)に、だいたいのあらすじの紹介があります。
それによると、
・・・・日本の遊覧飛行機のパイロットになる陳厚を追って香港から日本へやって来たのが許婚者の樂蒂で、その時はもう陳厚の気持ちは彼女をはなれ、三田に傾いている。彼女に同情する同じパイロットの高倉は同情がいつしか恋ごころとなり、やがて高倉は樂蒂と、陳厚は三田と結ばれるといった甘いメロドラマ。
とのことだそうです。
この記事、なかなか面白いので、ほかの部分からも、もう少し引用しておきましょう。
・・・・樂蒂と陳厚の映画は日本では未公開だが樂蒂は香港映画の昨年(1961年・せんきち注)の人気投票で李麗華、林黛とベテランにつぐ第三位、第四位が尤敏だった。一方、陳厚は五八年度アジア映画祭で最優秀男優主演賞を得た人気スターで、二人は上海生まれの同郷人。香港で結婚式を挙げてまっすぐ日本へ新婚旅行をかねてやってきたもので新婚六日目のおあついカップルである。
記者会見が終わって夜は築地の某スタジオで宣伝スチール撮影。樂蒂と高倉の甘い場面を写す段になって高倉がだん那さま(原文ママ)に「エキスキューズミー」といえば、陳厚はにっこり笑ってカタコトの日本語で「ドウゾ ドウゾ エンリョナク」といい返したりして大笑いだった。(後略)
現場の和気藹々とした様子が伝わってきます。
また、 『朝日新聞』(1962年3月14日付夕刊)と『近代映画』(1962年5月号)にも少し詳しい情報がありますので、それも引用してみます。
・・・・東宝がキャセイと組めば、東映はやはり香港の製作会社、ショー・ブラザーズとの合作で「香港旅情」を計画している。渡辺邦男監督、主演者には、日本のパイロット(高倉健)と親友の香港の富豪のムスコ(陳厚-チェンホー)、彼のイイナヅケの楽蒂(ローティ)、それにデザイナーになる三田佳子。ローティは尤敏同様、香港で人気のある女優で、彼女を使う合作映画は大川社長らが二年前から考えていたそうだ。たまたま四月(原文ママ)にチェンホー、ローティ夫妻が新婚旅行で来日するので、話がバタバタ本決まりになり、四月の花のころ日本ロケで撮影開始と決った。
香港には五月すぎ、スタッフ十四、五人が渡り、約二週間ロケする。渡辺監督やプロデューサーは三月末、下見に行くそうだが、渡辺氏は戦前、長谷川一夫らと現地ロケしたこともあり(長谷川一夫と李香蘭のいわゆる「大陸3部作」のうちの『白蘭の歌』と『熱砂の誓ひ』。せんきち注)、いわば合作映画の元祖。一方、ローティらもショー・ブラザーズ制作の「紅楼夢」で日本に来たことがあり、話が合うだろうと一行は張切っている。(後略)
(『朝日新聞』 「香港ロケ大ばやり」より)
「香港旅情」クランク・イン-東映-
東映と香港のショウ・ブラザーズの合作作品「香港旅情」は、先に東映本社で記者会見を行ったが、ショウ・ブラザーズの都合で、撮影は延期されていたが、いよいよクランク・インのはこびとなった。ヒーローに高倉健のパイロット、ヒロインには東宝の「香港の星」に出演の尤敏と共に、彼の地で人気最高の楽蒂(ろうてい)が薄幸な斜陽族の娘として登場する。彼女は香港の自宅に、日本の庭園をつくった程の日本びいきになり、いっしょうけんめいやりたいと抱負をのべている。なおメガホンは渡辺邦男監督の予定。
(『近代映画』より)
東宝の作品が、一人の男性(宝田明)に二人の女性(尤敏と日本人女優)というパターンなのに対して、東映は二人の女性(樂蒂、三田佳子)に二人の男性(高倉健、陳厚)という、かなり欲張り(?)な構図です。
この他、東映のファン組織である「東映友の会」の機関誌『東映の友』1962年5月号に樂蒂の紹介記事がありますが、そこには「現地の人気投票で尤敏を押えて第三位にえらばれた若手スターのナンバー・ワン」との記述があり、香港では樂蒂が尤敏を凌ぐ人気スターである、ということを強力にアピールしようとする東映の戦略が伺えます。
しかし、「四月の花のころ」、すなわち桜の咲く頃にクランクインするはずだった『香港旅情』は、なかなか製作開始にはなりませんでした。
その理由を、わたくしは「樂蒂のおめでたが発覚したため」と推測しているのですが、これまでのところ、樂蒂の妊娠・出産に関して触れている日本側の報道は未確認です。
今と違って、芸能人の私生活に関わる事項(特に結婚や妊娠に関して)が外部に漏れることに対して、皆驚くほど神経質でしたから、敢えて公表せずに済ませようとしたのかも知れません。ただし、これは全くの憶測に過ぎないのですが。
付記:
1、『日刊スポーツ』の記事中、「樂蒂と陳厚の映画は日本では未公開だが」とありますが、実際には陳厚の映画(『海棠紅』・1955年)が1957年に日本公開されています。この映画、香港の新華と日本の東和映画の合作で、東宝の製作陣がバックアップして日本の聯合映画のスタジオで撮影されたものです。
2、『東映の友』1962年5月号には、樂蒂の紹介記事の他、「香港から東京へ 親愛なる佳子さま」と題した樂蒂から三田佳子宛の書簡が掲載され、翌6月号には、三田佳子からの返信「東京から香港へ 東京もすっかり暖かくなりました」が掲載されています。
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