尤敏在日本3 (ホノルル・東京・香港) 壱




1963年、尤敏と宝田明共演による3作目の映画『ホノルル・東京・香港』の製作が始まりました。監督は前2作と同じく千葉泰樹、脚本は松山善三。
本作品の企画自体は、前作『香港の星』の製作中に既に決定していたもので、『週刊平凡』1962年5月17日号には、

 尤敏の次回作はやくも決定
『社長洋行記』『香港の星』に、女優になって初めての”かけ持ち”出演し、日本でもすっかり人気女優になった尤敏の次回作が早くも決定した。
東宝藤本(真澄)常務が、”尤敏映画の決定版はこれだ”といっている『香港・東京・ハワイ』(原文ママ)がそれ。
青い海をバックにワイキキの浜辺で、ハワイアンメロディーにのった尤敏のフラ・ダンスをいっぱいにとらえ、尤敏の新しい魅力をだそうとねらっている。

との、報道が見えます。

撮影は、2月の香港ロケに始まり、3月のハワイロケ、その後に東京でスタジオ撮影とロケを行なうというスケジュールでしたが、ハワイロケの経費を節約するためパン・アメリカン航空とタイアップ、『社長外遊記』(3月4日〜10日)『ハワイの若大将』(3月11日〜17日)『ホノルル・東京・香港』(3月18日〜27、28日頃)のロケを連続して行い、『ハワイの若大将』のスタッフ(監督、助監督以外)が、そのまま『ホノルル・東京・香港』のスタッフとして居残るという方法がとられました。
さらに、スタッフばかりか『ハワイの若大将』の主役2人(加山雄三、星由里子)も、それぞれ宝田明の弟役と尤敏のクラスメート役に駆り出されています。

東宝は、この連続ロケにより約1万ドル(当時のレートは固定相場制。1ドル=360円)の経費が節約されると見積もっていましたが、そううまい具合にはいかないのが現実というもの、その年の1月から3月、ハワイには例年の1年分の雨量を記録するほどの雨が降り、ロケ隊は長逗留を余儀なくされます。

ハワイの日系人向け新聞『布哇報知』(4月6日付)には、

例年にない雨でこまっているのはホノルルの市民ばかりではない、目下来布中の東宝撮影班も灰色に曇った大空を眺めては毎日青息吐息の状態だ。
なにもしなくても一日約千弗のお金が消えて行くそうだが、これが若しエキストラを雇って準備態勢をととのえた後で雨にふられて中止となるとすごい金が消えるそうだ。
ハワイの撮影をするのに曇った空では観客が承知すまいし、全く困ったものだと撮影班の一人がこぼしていた。全くお気の毒です。(略)
(「晴間を見ては撮影続ける 雨男・雨女の東宝 一日千ドルもいる滞在費」)

とあり、『読売新聞』の現地取材記事(「東宝 ハワイの長期ロケ隊」 1963年4月8日付夕刊)にも、

『ホノルル・東京・香港』(千葉泰樹監督)の一行も長とうりゅうのため、ハワイアン・ビレージ・ホテルで観光客と友だちになり、つめかけるファンと日米交流だ。(略)ハワイ大学にロケしたとき、休憩時間に学生たちが俳優にサインをしてもらっていたが、ほとんどすべてが教科書の表紙のうらにサインをしろというので、日本の俳優たちはふしぎそうな顔。中国人系留学生は尤敏に、日系人は加山、宝田明、草笛光子に、白人系は両方にサインを頼み、フィリピン人などの東南アジア系は、サインを頼まないという光景がいかにもハワイ的だ。(以下略)

と、ロケ中の様子が紹介されています。

ところで、このハワイロケで尤敏は初めての水着姿を披露、さっそく芸能マスコミに大きく取り上げられています。

・・・・日本映画に登場して以来、一度も水着姿にならなかったが、『ホノルル・東京・香港』で、はじめて水着になった。地元の香港のスクリーンでも、まだ一度も水着姿を撮らせなかったのだが、「ハワイのムードに負けちゃった」のだそうだ。
 これまで、水着にならなかったのは、「近ごろはグラマーな人たちが多いでしょう。小柄なわたしはコンプレックスを感じちゃって・・・・」ということだそうである。
 そういう彼女、水泳は非常にうまく、水着の好みもなかなかうるさくて、アメリカ製の黄色い水玉模様を選び出し、やっと撮影をOKしたしだい。(以下略)
(『週刊平凡』 1963年5月9日号)

ちなみに、藤本真澄はこれら3本のロケを立て続けに行なったことで、ハワイの観光宣伝に貢献したと認められ、ハワイ州議会に表彰されたそうです。



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