尤敏在日本1 (香港の夜) 参





さてここで、当時の尤敏に関する新聞報道から、面白そうなものを少し取り上げてみましょう。

「香港の夜」の主演女優 尤敏を売り出す(東宝) 近く日本で撮影続行
(1961年3月27日付『朝日新聞』夕刊)

来日前の報道。現地での撮影の模様や、尤敏のプロフィールが紹介されていますが、「彼女は広東生まれで22歳」とあり、生まれた場所も年齢も違っています。
記事の最後には、藤本真澄の「彼女は日本人に親しまれやすい顔をしているから絶対人気が出る」という、強気のコメントが掲載されています。

400字ドラマ「マカオの憂愁」
(1961年4月18日付『朝日新聞』夕刊)

朝日新聞の連載企画「400字ドラマ」に登場。
400字の文章と写真によるドラマで、作・演出が千葉泰樹、配役は彼・宝田明、K子・尤敏。
ストーリーは、香港に転勤後、現地の上司と衝突してマカオに飛ばされた彼が、物憂い気分を抱きながらセント・ポール寺院跡(大三巴)を眺めていると、東京で別れたはずの恋人・K子が通りかかります。彼は思わず「K子!」と呼びかけますが、彼女はK子そっくりの中国人で、指すような眼差しで彼を見つめるだけでした、というものです。
本文の他に「製作メモ」とも言うべき文章があり、そこには、

「香港の夜」のロケーションに出かけて行った千葉監督に頼んで、現地を舞台にして作ってもらった。
(略)尤敏は、いま来日中。「香港の夜」の撮影を続けている。

とあって、まんま映画の宣伝になっています。

日曜日に会いましょう 尤敏さん 見たいのは京都
(1961年5月7日付『朝日新聞』夕刊)

やはり朝日の連載企画である、「日曜日に会いましょう」にも登場。

「オマタセ、イタシマシタ・・・・」帝国ホテル新館ロビーに姿をあらわした彼女の口から、いちばんはじめに出てきた言葉がこれ。

という書き出しに始まり、香港にいるときから日本語の勉強をしたおかげで、平仮名50音は全て読み書きできるし、今でも毎日2時間近くは日本語の勉強に費やしているということや、千葉監督からの「カンがいい」というコメント、父のこと、撮影所で人気者になっていること、京都に行ってみたいこと等々、短い中にも盛り沢山の情報が詰め込まれています。
締め括りには、

別れぎわ「ドウモ、オツカレサマ」といって、手をさしのべてきた。

とありますが、彼女のそういった礼儀正しさも、日本のマスコミには非常に評判がよかったようです。

日本滞在中、尤敏は新聞や雑誌といった活字メディアの取材をこなす他、『スター千一夜』(フジテレビ)や『ポップ・ショー』(東京テレビ・現在のTBS)等のテレビ番組にも出演、特に『ポップ・ショー』では『香港の夜』の主題歌(北京語ヴァージョン)を歌い、その歌声を披露しています。

以上、ほんの一部分のみご紹介いたしましたが、尤敏を日本で売り出すために、東宝では藤本真澄自らが陣頭指揮を取り、

・・・・かくてこの作品(『香港の夜』・せんきち注)が三月に撮影開始して以来、その成果は、十五種の週刊誌にグラビアが延べ四十七ページ、十一の月刊雑誌に同じく十二ページ、表紙写真が両方あわせて六回、これに記事、ゴシップ、新聞関係を加えたら数え切れぬほどだ。テレビにも二度の来日(撮影と上映初日の舞台挨拶のために2回来日・せんきち注)で前後七回も出演している。あちらの表現をかりれば”かれん的影星・尤敏”の微笑は、こうして短期間に日本全国にばらまかれた。一人のスターを、これだけ売り込んだのは、東宝では”お姫さまスター”といわれた上原美佐以来のこと。そしてそれをはるかに上まわる規模だそうだ。
(1961年7月7日付『朝日新聞』夕刊)

というほどの、大々的な宣伝戦略が繰り広げられたのでした。




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