尤敏在日本2 (社長洋行記 正・続、香港の星) 壱




1962年2月21日、尤敏は新作『香港の星』製作のために来日、雪の北海道ロケに参加します。
生まれて初めて間近に見る雪に、「(雪が)こんなにやわらかくてきれいなものだとは思わなかった。香港へ持って帰りたい」(3月7日付『朝日新聞』夕刊)と大喜びしたそうですが、実はこの時期、彼女は香港で金銭トラブルにまつわる訴訟に巻き込まれていました。
最終的に、「尤敏は無罪」という判決が4月に出るのですが、そんな精神的にも苦しい時期に見た北海道の美しい雪景色は、おそらく彼女の心を大いに慰めたに違いありません。

3月下旬、『香港の星』は香港ロケに入り、同時進行で、森繁久彌主演の人気シリーズ『社長洋行記』『続社長洋行記』、電懋の映画『珍珠涙』にも出演と、大忙しの状態が続きます。

そしてその間、日本ではこんな驚くべき報道が流れていました。

日本語の歌もうたいます 尤敏が日劇でワンマンショウ

東宝では香港スター、尤敏の日本での人気を決定的なものとするため、七月に日劇で彼女のワンマンショーをおこなうことになった。
春ごろにという話もあったが、目下、香港ロケ中の彼女の主演作『香港の星』の公開される七月に合わせて"七月"という時期がきまったもの。
このワンマンショーが企画されたのは、戦前、まだ満州人といわれていたころの李香蘭(山口淑子)売り出しの際、このケースで大成功をおさめたからだ。
このときの日劇は、李香蘭の実演というので、その周囲を二重にも三重にもファンの行列がとりまき、警官隊まで出動する騒ぎだった。これで李香蘭の日本での人気が決定的なものになったのであるが、尤敏もこの例にならおうというわけだ。
李香蘭が日劇で爆発的人気を得たのは、満人でありながら、日本の歌をたくみにうたいこなしたことで、こんどの尤敏の日劇でのワンマンショーでも、彼女に日本語の歌をうたわせることになった。
尤敏は、いまのところまだカタコトの日本語しかしゃべれないが、
「日本語は、香港にいても勉強していましたし、日本の歌もぜひおぼえたいと思っていましたので、今度のお話は、わたしにとっていいはげみになります」
と大喜び。映画出演で忙しいにもかかわらず、日本の歌にいま夢中で取り組んでいる。
(『週刊平凡』 1962年3月22日号)

東宝としては、尤敏を使って「日劇七回り半事件」の再来を、と考えていたのかもしれませんが、結局この目論見は実現しないまま終りました。

さて、『香港の星』は4月4日からシンガポール、クアラルンプールでの撮影を行い、尤敏は5日にはシンガポール、9日にはクアラルンプールの劇場で上映中だった『香港の夜』の舞台挨拶に駆けつけ、熱狂的なファンの歓迎を受けました。
その後、『香港の星』は日本での撮影に入りましたが、尤敏はクアラルンプール・ロケを終えた後、『香港の星』のロケ本隊よりも一足先に来日、『続社長洋行記』の撮影(スタジオ撮影、箱根ロケ等)に加わりました。

日本に滞在中、尤敏はマスコミの取材などに対応する他、4月18日には日本語の歌『香港の花』(岩谷時子作詞、松井八郎作曲)のレコーディングを行なっています。
この曲、宝田明が歌う『香港のひとつ星』をB面に、堂々のA面としてコロムビア・レコードから発売、尤敏は『コロムビア・ヒット・ショー』にも出演しました(放送は6月23日)。

6月10日、撮影を終えた尤敏は香港へ帰っていきましたが、この間、4月29日には『社長洋行記』、6月1日には『続社長洋行記』が封切られています。




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