尤敏在日本1 (香港の夜) 伍




では、『香港の夜』の詳しい内容を見て行きましょう(あらすじは、こちら)。

『香港の夜』は日本版『慕情』として製作された、と言われるように、通信社の特派員とハーフの女性の悲恋という設定や、サンパンでのクルーズ、丘の上で愛を確かめ合う場面、恵子と父が宿泊しているホテルがレパルスベイホテルである点等々、『慕情』そのままなのですが、これはこれで上質のメロドラマに仕上がっています。
尤敏のどこかはかなげな風情が、複雑な生い立ちを持つ麗紅の役にぴったりとマッチして、母子が再会するシーンでは思わずほろりとさせられてしまいました。
当時、東宝の若手看板女優だった司葉子も、この映画では脇に回って尤敏を引き立てています。

映画評も、

・・・・記者と混血娘との悲恋模様を型通りの通俗さで描いたものだが、話を香港と日本に結んで、その風景を美しく描いており、中国語や英語もたくみにとり入れるなど、メロドラマのスケールを大きくした点で、なかなか新鮮な感じを与える。麗紅に扮する尤敏もメロドラマ女優のふんいきをもっており、混血娘らしいさびしさを演じて悪くない。(以下略)(『朝日新聞』)

・・・・メロドラマとしても合作映画としてもなかなかうまくできている。(略)香港女優ユーミンは、清潔な感じで美しく、彼女の起用はたしかにこの作品の成功のかなめとなっている。(以下略)(『読売新聞』)

と、尤敏の演技を高く評価しています。

ちなみに、麗紅の親代わりである張千里を演じた王引(1911〜88)は、かつて上海で活躍していた俳優兼映画監督で、1943年の『萬世流芳』では李香蘭(山口淑子)と共演、監督(卜萬蒼)の上海訛りのひどい中国語が聞き取れずに苦労している彼女を、王引が助けてくれたというエピソードが残されています。
後に、山口淑子はこのときのことを、「王引は私を日本人と知っていたのだ。とっさの機転で救ってくれたのだ」(『李香蘭 私の半生』)と述懐しています。

『香港の夜』が大ヒットし、自身の演技に関しても高い評価を得た尤敏は、日本でも、一躍人気女優の仲間入りを果たしたのでした。

さて、尤敏の人気沸騰ぶりを見て、他の映画会社が黙っているはずはありません。

大映は、尤敏引き抜き工作を開始、『ローマの休日』の焼き直し作品である『王女と私』に尤敏を主演させようとしました。
そうはならじと東宝も急遽次回作を決定、その名も『香港の星』の製作を発表し、結局、大映は永田社長の「(無理な引き抜きは)道義的に問題がある」との発言もあって引き抜きを断念します。
一方、東映は電懋のライバル会社である邵氏(邵氏兄弟。ショウ・ブラザーズ)との合作を計画、邵氏の人気女優だった樂蒂(1937〜68)をヒロインに起用して、『香港旅情』の製作を発表します(共演は高倉健、三田佳子、陳厚〔1929(or 31)〜70〕)。
この『香港旅情』、1962年2月に東映本社で樂蒂、陳厚(二人は当時新婚で、箱根に新婚旅行に来ていました。しかし、後に離婚してしまいます)、高倉、三田出席のもとで製作開始記者会見が行なわれましたが、ついにクランク・インしないまま終わってしまいました。
また、『香港の夜』がハワイやロサンゼルスでもヒットしたことを受けて、アメリカのユニバーサルは、東京支社を通じて尤敏に契約を申し出ますが、彼女はこれを断っています。

人気女優となった尤敏は、日本のマスコミによるゴシップ報道の洗礼も受けました。

まず、『香港の夜』製作開始時に流されたのが、藤本真澄と尤敏が香港で婚約したという報道。
これは、宣伝のために流した噂をマスコミが取り上げたものでしたが、尤敏の知名度アップには大いに役立ちました。
その後、尤敏が日本での撮影を終えて帰国する折に開いた記者会見の席上、「皆さんは私を香港の真珠と言いますが、(私は)ミキモト・パールではなく、フジモト・パールです」と言った、そのウィットに富んだ発言が、またしても妙な憶測を生むことになり、週刊誌上で格好のネタにされました。
その後、尤敏自身が「藤本さんは私のお父さんのような人です」と弁明、一件落着しました。

また、『香港の夜』撮影時から流されたのが、共演の宝田明とのロマンス。この報道はいったん収束した後、62年の『香港の星』撮影時に再燃します。

さらに、尤敏は独身ではなく、香港の男優・雷震(1933〜。最近では『花様年華』に出演しています)と結婚しているという怪情報が流れたこともありました。
もちろん、これは根も葉もないデマなのですが、お相手とされた雷震が樂蒂の兄であったことから、樂蒂を合作映画に起用する東映側が故意に流したのではないかという、思わぬ波紋が広がりました。

『香港の夜』が製作されたのと同じ1961年、尤敏は彼女の生涯の代表作である『星星・月亮・太陽』に出演、翌62年、第1回台湾金馬奨(台湾のアカデミー賞)主演女優賞を受賞しました。
彼女は、女優として、その最盛期を迎えていました。(第1章おわり)

付記:実は、大映も、東宝が電懋と合作映画を製作する数年前から電懋との合作交渉を進めており、主演には尤敏を起用したいと考えていました。しかし、脚本の面でなかなか折り合いがつかず、延び延びになっている間に東宝に先を越されてしまったのだそうです。



尤敏(目次)に戻る

前頁へ   第2章



玄関(TOP)



Copyright (C) 2004 "Ryosou Ai no Sazanami" by Senkichi. All rights reserved.