そして何も生まれなかった?




先日、『キネマ旬報』のバックナンバー(1970年3月下旬号〜5月上旬号)をぱらぱらめくっていたら、1970年の大阪万国博覧会のさい、関連行事として「第1回日本国際映画祭」という、国際映画製作者連盟公認の国際映画祭が開催された旨の記事が掲載されていました。

実は当時、日本が音頭を取って開催していた映画祭には、1954年、大映の永田雅一社長が中心になって始めた「アジア映画祭」(現・アジア太平洋映画祭。初名・東南アジア映画祭)がありましたが、60年代後半に入ると、この映画祭に対して日本映画界からは不満の声が上がるようになっていました。

曰く、

1、日本は会長国(アジア映画祭は、永田社長が会長を努めるアジア映画製作者連盟の行事)として会費の半分以上を納めているのに、第1回から一銭も払っていない参加国がある。
2、日本以外の国で開催する場合、政府の助成を得ることが多く、ために政府の意向が反映されやすくなり、連盟の憲章にある「政治的な問題には触れない」という点に抵触してきてしまう。
3、華人の国の審査員は同盟を結んで審査に当たるため、中華圏の作品が受賞しやすくなり、審査の公正を期すことができない。
(森岩雄『私の藝界遍歴』〔1975年、青蛙房〕による)

ようするに、「高い金払ってやってるのに、なんで他所の国にばかり賞を持って行かれなくちゃならないんだ?」ということですね。
それもこれも、日本映画界が羽振りのよかった頃ならば、まだ許せる問題だったのかも知れませんが、この頃にはもう斜陽産業の仲間入りを果たそうかという時期でしたから、ちょっとの損も見過ごせなかったのでしょう。

そんなわけで、アジア映画祭に代わる日本主導の新たな映画祭を作るべく、東映の大川博社長(当時の東映は、「やくざとエロ」で一人勝ち状態にありました)が中心になって企画したのが、日本国際映画祭だったのでした。

当初、大川社長はアジア映画祭を発展的解消(と言うと聞こえがいいですが、要は「ぶっつぶし」でしょう)した上で、新たに日本国際映画祭を開催しようと考えていたようですが、結局それは失敗、アジア映画祭はとりあえずそのままにして、日本国際映画祭を行う、ということに方針転換しました。

が、映画界だけで(映画祭を)行おうにも、先立つものが足りません。そこで、万博の関連行事として国の援助を得て開催することとし、1970年4月1日から10日まで、万博第2会場の大阪フェスティバル・ホールで行われることが決定したのでした。

コンペ部門なし、上映のみの映画祭でしたが、世界35カ国51本の作品が参加申請を行い、審査の結果、20本の作品が上映されることになりました。
その顔ぶれ及びスケジュールを、下記に挙げておきます。

4月1日  開会式 
       『Z(Z)』(ギリシャ、コスタ・ガブラス監督)
       開会記念祝賀パーティー
4月2日  『愛すれど永遠に他人(Stranger Forever)』(韓国、チョ・モンジン監督) 
       『素晴らしき戦争(Oh! What a Lovely War)』(イギリス、リチャード・アッテンボロー監督)
4月3日  『大恋愛(Le Grand Amour)』(フランス、ピエール・エテ監督) 
       『アデルハイト(Adelheid)』(チェコ=スロバキア、フランティジェック・ヴラテル監督)
4月4日  『マテウシュの青春(Zywot Mateusza)』(ポーランド、ヴィトルド・レジェチンスキー監督)
       『シャイヨの伯爵夫人(The Madwoman of Chaillot)』(アメリカ、ブライアン・フォーブス監督)
4月5日  『抵抗の詩(Krvava Bajka)』(ユーゴスラビア、トーリ・ヤンコヴィッチ監督)
       『野性の少年(L'enfant Sauvage)』(フランス、フランソワ・トリュフォー監督) 
       『みどりの壁(La Muralla Verde)』(ペルー、アルマンド・ロブレス・ゴドイ監督)
4月6日  『カルディラック(Cardillac)』(西ドイツ、エドガー・ライツ監督)
       『マルティン・フィエロ(Martin Fierro)』(アルゼンチン、レオポルド・トーレ・エルソン監督)
4月7日  『モア(More)』(ルクセンブルグ、バルベッド・シェローダー監督) 
       『ルシア(Lucia)』(キューバ、ウンベルト・ソラス監督)
4月8日   『受難(Viragvsarnap)』(ハンガリー、イムレ・ジェジェシッキイ監督)
       『サテリコン(Satyricon)』(イタリア、フェデリコ・フェリーニ監督)
4月9日  『グービーとバーガーの冒険(The Advetures of Goopy & Bagha)』(インド、サタジッド・レイ監督)
       『私は好奇心の強い女(Jac Ar Nyfiken-Gul)』(スウェーデン、ヴィルゴット・シェーマン監督)
4月10日 『無頼漢』(日本、篠田正浩監督) 
       『愛の告発(Letters of Love)』(ソ連、エヴゲニー・マトヴェーエフ監督)
       閉会式
       さよならパーティー

なかなかバラエティに富んだ内容ですが、アジア映画祭参加国の内、韓国の作品しか出品されていないのが、いささか気になるところです。選考段階で漏れたのか、あるいは最初から参加申請しなかったのか。今となっては、その実態は謎です。

映画祭での上映は一般にも開放され、京阪神地区ではプレイガイドと主要映画館の切符売り場、東京では銀座の万博催物入場券センターと大手町の映画祭事務局でチケットが販売されましたが、『受難』のような難解な作品には観客が集まらず、大胆なセックス描写が売り物(容赦なくカットされたようですが)の『私は好奇心の強い女』には観客が殺到という、予想通り(?)の結果に終ったようです。

映画祭にはつきものの海外からのゲストに目を向けてみると、1日の開会式に顔を見せたのは、クラウディア・カルディナーレただ一人。
その後、フランソワ・トリュフォーやジャンヌ・モローもやって来たそうですが、前宣伝にあったようなダニー・ケイやヴァネッサ・レッドグレープ、ジュリエッタ・マシーナ、フェデリコ・フェリーニらの来日は、実現しませんでした。

ともあれ、10日間の開催期間をどうにか無事に終えた日本国際映画祭でしたが、翌71年、大川社長が死去すると、第2回の映画祭が開催されることはなく、これ1回きりの開催に終ったようです。

同じ71年、アジア映画祭の中心人物だった永田社長率いる大映が倒産、映画祭の規約も、「会長は毎年各国持ち回りにし、会費は無しにする。映画祭開催費は、主催国が全額負担」ということに改められ、日本映画界はアジア映画祭の運営から実質手を引くことになりました。

日本国際映画祭の開催にあたって、実行委員長だった金指英一氏(教育映画配給社社長・当時)は、

「今度の国際映画祭は日本映画70年の歴史の中でも、一つの大きなイヴェントになるでしょう。映画界の今の時点で、世界映画界の代表者が集まるということは、大きな刺戟にもなることだ。きっと何かが生れてくると思いますよ」

と、コメントしていますが、結果的には何も生まれることはなく、映画祭が開催されたこと自体、歴史の片隅に埋もれることになったのでした。

(2003年11月19日〜21日記。2004年9月26日一部加筆)




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