アジア映画祭のニュース映画





神奈川県横浜市にある放送ライブラリー。
ここでは、メインの収蔵資料であるテレビ・ラジオ番組の他、ニュース映画(『毎日世界ニュース』。後、『大毎ニュース』と改称)も閲覧することができます。
そしてそこには、アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)に関する貴重なニュース映画が含まれているのです。

ご存知のとおり、アジア映画祭は1953年、大映の永田雅一社長がアジア各国の映画人と共に結成したアジア映画製作者連盟の主要行事で、1954年に東京で第1回の映画祭が開催されました。
そのときは「東南アジア映画祭」という名称でしたが、その後「アジア映画祭」に改められ、さらに「アジア太平洋映画祭」と改称、現在に至っています。
今でこそ、日本国内ではほとんど話題にすらならない映画祭ですが、1960年代までは日本映画界が中心となって運営していた映画祭でした。

以下に、わたくしが観ることの出来たニュース映像を挙げておきましょう。

『毎日映画ニュース 253』(1956年6月29日)
「3、週刊話題 東南アジア映画祭」
香港での映画祭の模様。ペニンシュラ・ホテルらしき場所が映り、白光、中原ひとみ等が登場。

『毎日映画ニュース 300』(1957年5月22日)
「3、週刊話題 アジア映画祭」
東京での映画祭の模様。台湾代表団メンバー(穆虹、張仲文か?)の姿が見えます。

『毎日世界ニュース 404』(1959年5月6日)
「3、週刊話題 アジア映画祭へ」
空港での日本代表団出発風景。

『毎日世界ニュース 454』(1960年4月13日)
「6、はなやかなアジア映画祭」
首相官邸にて勲4等を受ける邵逸夫(ランラン・ショウ)、陸運涛(ロク・ワントウ。鐘啓文〔ロバート・チョン〕が代理受章)、マニュエル・デ・レオン。
その後に東京での映画祭の模様。香港代表団メンバー(尤敏、丁皓)の姿が見えます。丁皓は、カメラ目線。
主演女優賞を受賞した尤敏の授賞風景(鐘啓文にエスコートされる尤敏)。ナレーションでは「ゆうめい」と呼ばれていました。香港の有名な女優のゆうめいさん?

『毎日世界ニュース 502』(1961年3月8日)
「3、アジア映画祭へ」
空港での日本代表団出発風景。

『大毎ニュース 565』(1962年5月23日)
「3、週刊話題 東南アジアの映画人」
5月13日から17日まで、韓国・ソウルで開催された第9回アジア映画祭の終了後、日本へ立ち寄った各国映画人の模様を映像におさめたもの。
歓迎パーティーの席上、唐寶雲や穆虹といった中央電影公司所属の女優をエスコートする林沖の姿が見えます。
ちなみに、このニュース映画の最後には、

1963年に(アジア映画製作者連盟結成・筆者注)10周年を記念して、参加8カ国(日本、香港、台湾、韓国、タイ、フィリピン、マレー、シンガポール・筆者注)で親善合作映画をつくる計画・・・・

なんていうナレーションが流れますが、これは実現されずに終わりました。

『大毎ニュース 613』(1963年4月24日)
「3、アジア映画祭」
東京での映画祭の模様。マレー語映画の大スターであるP・ラムリーらしき人物が、おでんを頬張りながら、「おいしいです!」と言っていました。

『大毎ニュース 673』(1964年6月17日)
「2、週刊話題 アジア映画祭へ」
空港での日本代表団出発風景。浅丘ルリ子の姿が見えます。

『大毎ニュース 772』(1966年5月11日)
「2、週刊話題 アジア映画祭へ」
空港での日本代表団出発風景。山本陽子、藤村志保の姿が見えます。

このように、ニュース映画でも数多く取り上げられていたアジア映画祭でしたが、1960年代後半になって日本映画が斜陽を迎えるようになると、映画祭の姿勢そのものに対する不満が出るようになり、1970年には東映の大川博社長が中心になって、万国博覧会の関連行事として「第1回 日本国際映画祭」(前頁参照)を開催するという現象が起こりました。
が、この映画祭も第1回限りでお釈迦になり、アジア映画祭も大映の倒産で永田社長がアジア映画製作者連盟会長を辞任した後、規約も変更(会長は各国持ち回りにする、等)され、日本映画界とは一定の距離を置くようになっていったのでした。

しかし、これらのニュース映画により、かつての華やかな映画祭の有様を偲ぶことが出来ます。
興味のある方は、ぜひご覧になってみてください。

(2004年7月18日記。同年10月3日タイトル変更及び一部改稿)




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