なぜ九龍をクーロンと読むのか?





2003年の春、当初は「香港発・謎の肺炎」とされた「新型肺炎 SARS」が世間を騒がせていた頃、某お台場にあるテレビ局のニュースで九龍のことを「クーロン」と読んでいたのが、ひじょーに気になりました。
よく日本人は、香港の九龍半島のことを「クーロン」といいますが、実際には、広東語の発音だと「がうろん」、北京語だと「じうろん」、そして英語だと「カオルーン」になり、決して「クーロン」とは言わないんですね。

が、このクーロン問題、気にしていたのは私だけではなかったらしく、『新香港1000事典』(小柳淳氏編、2000年、メイプルプレス)にも、「クーロン」なる項目がありました。
いわく、「(略)思うに九の日本語読みの「クー」と、龍の中国語読みの「ろん」の合体で、いわば国際的重箱読みなのではないだろうか。とすれば、日本語であって、しかもただの間違いということになる。(略)」との由。
ですが、わたくしの調べた範囲では、邱永漢氏の直木賞受賞作である『香港』(1955年)において、すでに九龍と書いて「クウロン」と振り仮名が振ってあるのを発見しております。
しかし、「クー」は九の日本語読みではないようですし、それに九の日本語読みならば、「クーロン」よりも「キューロン」辺りに落ち着きそうなものです。
また、何ゆえに邱氏は九龍をクウロンと読んだのか、その理由も判然としないのですが、同じ『香港』の中で「油麻地」(やうまてい)に「ユマテイ」と振り仮名をつけているところから考えると、邱氏は「au」の発音を「u」にしてしまう癖があったのかも知れません。

・・・・と、以前書きましたが、先日『香港』の初版本(1956年)を調査したところ、な、なんと、「九竜城」の脇に「カウロンセン」なるルビがあるのを確認いたしました。
となると、1980年に出た文庫版でなにゆえに「カウロン」から「クウロン」という改変がなされたのか、謎が一つ増えてしまいました。


この後の1962年、東宝映画『社長洋行記』では、新珠三千代が森繁久彌と香港で逢引する場面において、九龍半島のことを「クーロン」と呼んでいたので、この頃にはクーロン伝説(?)が日本人の間で深く静かに浸透しつつあったと考えられるものの、1964年の『東京ギャング対香港ギャング』『ならず者』(いずれも東映)では「カオルーン」ないしは「カオルン」という読み方をしていましたから、当時はまだ一定の呼称がなかった模様です(1961年の『香港の夜』では「きゅうりゅう」)。

では一体、いつごろから日本人は九龍をクーロンと言い出したのかなあ、と考えつつ、1941年に日本軍が香港を掌握したさいの記事(アサヒグラフ)を 調べてみましたが、ただ「九龍」とあるのみで、特に振り仮名はありませんでした。
が、ひとつ面白いことを発見しました。
日本軍が香港に入城して、九龍半島の目抜き通りである「彌敦道」(ネイザンロード)を行進しているのですが、そこには「リートン街大通り」とあるんですね。
しかし、この通りは広東語だと「ねいとんどう」、英語だと先にも書いたとおり「ネイザンロード」ですから、やっぱり違う読み方なんです。
ちなみに北京語だと、「ねい」は「にい」になります。
ただ、香港人は「n」が「l」に転訛する癖がありますから、「ねいとんどう」は「れいとんどう」になり、となると、

「ねいとんどう」→「れいとんどう」→「りーとんどう」→「リートン街大通り」

に変化した可能性も出てきます。
ま、いずれにしろ、これもちょっと変わった読み方です。

今のところ、『社長洋行記』以前に九龍をクーロンと読んだ資料を見出せずにいますが、おそらく、戦時中、日本軍が香港に軍政をしいていたときには、「きゅうりゅう」と、普通に日本語読みしていたのではないかと思います。
となると、ある日ある時マスコミ(ないしは芸能界)の誰かが「クーロン」と間違って呼んだ、それが勝手に一人歩きを始めてしまったと考えるのが、妥当な線かも知れません。

ちなみに、朝日新聞ではこの九龍に「カウルン」と振り仮名を振っています。これは、「龍」の広東語ローマ字表記(イエール式、ラウ式等、数種あります)「lung」の「u」を「う」と読んでしまったからのようです。
実際には、この「u」は「お」と読むべきなのですが。
最近、朝日新聞は、中国語の人名・地名には現地の言葉(に近い発音)を用いて振り仮名を振る、という方針にしているようですが、こんな中途半端なことをするぐらいなら、普通に日本語で読めばいいんですよね。
中国のニュースでは、日本人の名前も中国語読みにされちゃうんですから、お互い様ということです。

(2003年2月2日、3日、3月31日記。2004年10月14日大幅に改訂。2006年1月8日加筆改訂)




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