飛べ飛べ生首! 2
(『悪魔の生首』)

 


東映の女優・池玲子が、香港の嘉禾(ゴールデン・ハーベスト)に招かれて主役をつとめたホラー映画。
東宝のカメラマンで、尤敏&宝田明コンビによる「香港3部作」(『香港の夜』『香港の星』『ホノルル・東京・香港』)の撮影も手がけた西垣六郎が、特撮を担当しています。
が、タイトルバックにおけるこの2人のクレジット、池玲子は池鈴子に、西垣六郎は西恒六郎になっており、「せっかく日本から呼んだくせに、この間違いはいったい何なんだ?」と思ってしまいました。

さて、池玲子が嘉禾に招かれた、その裏事情について、『東映ピンキー・バイオレンス 浪漫アルバム』には、次のような記述があります。

当時(1973〜74年にかけて・せんきち注)、東映が実録路線に傾いている頃、映画界にはもうひとつ「空手映画」というムーブメントが吹き荒れていた。池も『逆襲!殺人拳』にも出演していたが、やはり一番人気はブルース・リー。リーの作品配給は、当時東宝東和がまとめて買っていたが、何故か4作目の『ドラゴンへの道』は東映配給だった。何故なのかといえば、どうやらこれにはウラがあるらしい。
リーの映画を提供しているゴールデンハーベスト社長のレイモンド・チョウ(鄒文懐・せんきち注)はカンフーに続く新たな路線を模索しており、「次はポルノだ!」と意気込んでいて、しかも東映作品の池をずいぶん気に入っていたらしい。「女ブルース・リーとして売り出す」と口説かれ、池はその気になり香港まで出張サービス。しかし出演作品は『心魔』(邦題『悪魔の生首』)という作品で、結局はポルノ・ホラーであった・・・つまり、彼女の香港出張のバーターとして、東映は『ドラゴンへの道』の配給権を手に入れたのではないか・・・と言われているのだ。
ビジネス上の話とはいえ、ブルース・リーと池玲子は等価交換、つまり同じ目方であった。(以下略)
(植地毅「伝説のピンキー・バイオレンス女優 池玲子 杉本美樹」より 『東映ピンキー・バイオレンス 浪漫アルバム』所収)

鄒文懐が池玲子を気に入っていたかどうかはともかく、彼が「次はポルノだ!」と意気込んでいたという説には、いささか疑問を抱かざるを得ません。
というのも、鄒がかつて所属していた製作会社で、最大のライバルである邵氏(ショウ・ブラザーズ)では、既に1972年から李翰祥(リー・ハンシャン。1926〜96)という当代随一の売れっ子監督を使って、「風月片」なるポルノチックな作品群を量産し始めており、この系統に属する監督として他に呂奇監督(1942〜)等も作品を発表していたからです。
この時期、李小龍(ブルース・リー)の登場や邵氏を脱退した許冠文(マイケル・ホイ)と組んだコメディー映画の成功によって、その基礎を築きつつあった嘉禾でしたが、こと色情片(ポルノ映画)に関して言えば、邵氏に大きく水を開けられていた模様です。
なによりも、邵氏が貝蒂、胡錦、恬〔女尼〕、艾蒂、陳萍といったセクシー女優を多く擁していたのに対して、嘉禾には手持ちの駒がほとんど存在していないような状態でした。
そこで、鄒としては、この分野(色情片)においても邵氏に対抗するべく、満を持して日本から「最強にして最大の秘密兵器」である池玲子を招いたのではないか、わたくしはそう考えています。

しかし、「女ブルース・リーとして売り出す」なんて、鄒文懐は本当にそんな夢を抱いていたのでしょうか。
いっときははずみでそんな考えも閃いたけれど、使ってみたらあかんのでやめてしまったとか?
ただ、翌1975年、やはり嘉禾製作の『女子[足台]拳群英會』(呉宇森監督)に、衣麻遼子や小林千枝らが助っ人として加わっているので、嘉禾としては「ヌードもアクションもOKの女優」を物色していたのかも知れません。
いずれにせよ、詳細は不明ですが。





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